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交野古文化同好会の「歴史健康ウォーク」や「勉強会」で学んだ用語・その意味・さま
ざまな疑問を手帖に書き込みました。このページを開き、辞書代わりに活用してます。
(同好会会友の平田さん・村田さんの語録・記録を参考にさせていただきました)
交野の文化財(ベストV) をクリックして下さい!

ベストT
ベストU
ベストV
交野山(344b)旗振山(345b)竜王山(318b)
天の川(生駒麗〜淀川)免除川(白旗池〜天の川)がらと川(国見池〜天の川)
山の根の道
倉治〜寺〜私市〜星田〜南大谷
東高野街道
八幡〜洞が峠〜出屋敷〜郡津
かいがけの道
寺〜住吉〜傍示
地名
スタコ坂(砂子坂)
私部・洲田、三角洲、長砂
神出来(かんでら)
星田・上寺は神寺のあて字?
北浦(きとら)
傍示
遺跡
神宮寺縄文時代住居遺跡
縄文早期の押し型文土器採集
寺南山弥生時代住居遺跡
S34,秋の大雨で土器表面採集
私部城遺跡・私部南遺跡
平城で土塁を現存
古墳
森古墳群(前期)
106bの前方後、高所円墳
東車塚古墳群(中期)
交野高校建設用地及び周辺
寺古墳群(後期)
塚穴は石室を現存
建物
山添家
重文・宝永2年(1705)
北田代官屋敷
重文・元文4年(1739)
交野市歴史民俗資料館
近畿無尽金融の建物
仏像
薬師如来坐像
(国宝・獅子屈寺)
阿弥陀如来立像
(重文・八葉蓮華寺)
十一面観音立像
(市指定・星田寺)
石仏
弘安地蔵
私市・弘安4年(1281)
弥勒菩薩・阿弥陀三尊
(神宮寺石仏の道)
十三仏
(慈光寺)
廃寺
長宝寺
郡津(白鳳時代)
開元寺
神宮寺(天平時代)
岩倉開元寺
倉治(鎌倉時代)
源氏の滝鮎返しの滝
(雨乞い)
なすび石の滝
鍛冶ヶ坂
(長さ240b大池東に至る)
大仏坂
(倉治・鋳物師がかよった道)
和田坂
(私市・わらんだ坂)
逢会橋・スタコ橋・長砂西橋
(アイアイ橋・・通称)
落合橋・百々橋・札ノ辻橋
(落合橋は南川・北川が落ち合う橋)
市場橋・札之辻橋
かご池
(現・関スパ0,74f)
白旗池
星田大池
(3,9f元6f)
梵字
交野山山頂
聖観音・三宝荒神・大日如来
源氏の滝
不動明王
寺・京の山
不動明王
石造物
仁平川の洗い場天野川堰堤・尺治川の床固工
国登録文化財
住吉神社大鳥居
万延元年(1860)
伝説
  文化財保護委員 平田政信氏
  ※ URL<星のまち>を参考にさせて頂きました

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◆交 野 三 山
 交野山標高344m  交野市のシンボル。頂上に巨岩があり観音岩と呼ばれている。
昔から陽の上る山として信仰をされてきた。 岩に梵字が刻まれている。開元寺
(天平、奈良時代)→交野山の頂上・岩倉開元寺(鎌倉時代)が建てられていた。
 また役行者(えんのぎょうじゃ)の修行の場―交野山、竜王山、獅子窟寺、磐船神
社―であった。神宮寺から登る、石仏の道には、弥勒菩薩、弥陀三尊など三つの磨
崖仏がある。元旦には、初日の出を拝む市民で一杯になる。
交野山は交野断層によって、せり上がった山頂部が浸食作用を受け、周囲の風化の進
んだ花崗岩が削り取られ、固い花崗岩が岩塊となって残ったものである。

旗振山標高345m 交野の最高峰。交野山の南、郡南街道から野外活動センターへ入る道
を西へ登る。 江戸時代中頃から「大坂・堂島の米市場」を白旗、黒旗で3里ごとに
中継点を設けて旗振り通信で米の値段を知らせた。 旗振山は、大阪方面が一望でき
る立地のよさで旗振り通信が行われた。交野の人々もこの山で振られた旗の様子でい
ちはやく米の相場を知って米の売り買いの決断をしたという。

竜王山 標高318m 寺村から「かいがけの道」を登ると、竜王社への上り口がある。
鳥居をくぐり登りついた所がお祭り広場である。その上一段高くなった広場に竜王石
があり、その北側のとんがった岩が雨乞い岩。
平安時代、淳和天皇の天長2年(825)に干ばつで稲が枯れた。村人のこの苦しみが
天上に達して、弘法大師に雨の降るのを祈らせたのが山頂の竜王石である。また、
山頂には雷神が小便をかけた「いばり石」、弁慶岩などがある。修験者がこもった
岩窟も残っている。 






◆東高野街道

平安初期の真言密教の開祖空海が京と高野山に本拠を置いて以来、民間の大師信仰、高
野聖の活動と相俟って、多くの信仰者の往来を見るに至った。
京都の東寺は、弘仁14年(823)に空海に下賜されて、真言宗の根本道場となった。
この東寺と高野山(816年建立)を直結するのが[東高野街道]である。
東高野街道は鳥羽から分れて、淀・八幡・洞が峠の順序で河内に入ると、交野市の
郡津・星田を通って、四条畷・柏原・富田林と南へ進み、河内長野へ西高野街道
合して高野山に達する。この街道筋の所々には、弘法さんの井戸と言って道端に美
しい水を湛えた井戸が古くから設けられている。それには、弘法大師の法力で湧き
出したなどの伝説をともなっていることが多い。また、京都と高野山を結ぶものに
淀川水路があった。この水路コースは、京都から陸路で鳥羽、山崎に至り、そこか
ら淀川を下って渡辺の津に上陸する。渡辺は今の大阪市天満橋と天神橋の間の南側に当
たる。

大阪から天王寺・住吉と歩いて堺に出て、紀見峠へ向かう道を西高野街道という。
また、四天王寺から平野を通って真っ直ぐ南に紀見峠へ向かう道を中高野街道とい
った。西高野街道と中高野街道は河内長野市で合流、やがて南下してきた東高野街
道と一本になり紀見峠を越えて高野山に向かう。

枚方市樟葉に駅が設置されたことは、続日本紀和銅4年(711年)に見え、この道は
樟葉から枚方、交野郡の郡衙地の郡津を経て、星田から南へ行ったのであろう。郡
津神社の西の地は、「くらやま」といわれ、古代律令時代に栄えた交野郡衙(かた
のぐんが)の跡地と推定されている。郡衙(ぐんが)とは、大化の新制により、これ
まであった旧制の地方支配者の臣(おみ)・連(むらじ)・伴造(とものみやっこ)・国
造(くにのみやっこ)・村首(むらのおびと)等を廃し、これにかわり国には国司(こ
くし)・郡には郡司(ぐんじ)をおいて天皇のもとに集中する権力機構の支配系統が樹
立した。
河内では南に国府ができて、その下に多くの郡が設けられたが、北部には茨田(ま
った)(淀川付近)、讃良(さら)(四条畷方面)、交野(交野丘陵)=交野郡衙の三郡が置
かれ、それぞれ要衝には郡衙ができた。国司は中央から派遣されたが、郡司はその
地方の有力豪族が支配することが多かった。郡司がその地方の民を統率し年貢米を徴収
した。その中心地が郡衙であり、役所があって、米蔵が林立した。

明遍寺(みょうへんじ)は、浄土宗の宗祖法然の弟子明遍がもとを開いた。藤原時代
の終わり、平家の没落に近い治承年間(1177〜1180) 高野山にいた僧明遍(
みょうへん)は浄土宗の祖法然が京都比叡山延暦寺で法を説いているのを聞き、大い
にこれに帰依し、度々、この東高野街道を往復した。途中、休憩所をこの東高野街
道の郡津の茶屋付近に設けた。ここで、休むごとに、集まる農民に法然直伝の念仏
往生の教えを伝えた。その後、休憩所であった小庵が明遍寺となって、現在に続い
ている。

石清水八幡宮が、貞観元年(859年)勧進されると、八幡信仰の道として、河内から
京への道は八幡を通るようになった。この時期になると、八幡、洞が峠、高野道、
出屋敷、四辻、郡津、星田、大谷、打上、四条畷、中・南河内を経て、高野山へコ
ースとなる。
貝原益軒は、元禄二年(1689年)、京より高野山へ行こうとして洞ヶ峠から河内に入
った。この旅行記「南遊紀行」には、この街道を「大道}とか「山の根道」「山根
の大道」「山の根すじの大道」などと呼び、「京より紀州へ行く大道なり」と書
いている。この名は、よほど古い名で、高野街道という名称以前の大昔からあるも
であろう。
『河内誌』は官道として現在でいう京街道、東高野街道、暗峠越奈良街道、長尾道
、竹内街道の五街道をあげている。官道といっても幕府管轄の道ではなく、重要道
路という意味であろう。 明治になって、大阪府は東高野街道を一等縦貫線として、
国道29号線、能勢街道とともに三本の一つにあげている。起点は城河国界の招村
、終点は長野村で、この延長13里2町25間、大阪府管内縦貫線中、最長の長さ
を持ち他に街道を併せるもの少なからずとされている。

天野川ににかかっている逢合橋を西に越えると、左前にある薮のある小さい丘が目
にく、この丘を「上人松」とか、「お野立所」とか「上ん山」と呼んでいる。(現在
では、建物が建ち並び見えない。)ここへは、逢合橋を渡ってまっすぐ「逢合橋西」
の表示板の方向に歩いて30bほど行くと南北の道と十字に交わる。その道が東野
街道で交野市と枚方市の境である。この道を左にとり、水道道を越すと、すぐ右「
本尊掛松遺跡大念仏寺」の道標がある。それに続いて玉垣の中に大きい地蔵様がお
いでになり、光背の左に「法明上人御旧跡勧進紗門」、その裏に「弘化二乙巳(1845
)4月24日 世話人交野門中」と彫ってある。

ここ「上人松」にこんな伝説がある。後醍醐天皇の元享元年(1321)12月15日夜、
摂津深江の法明上人に「男山八幡宮に納めてある融通念仏宗に伝わっている霊宝を
授かり法灯をつぐように。」との夢告げがあった。上人はさっそく弟子12人を連れ
て男山へ向かった。上ん山まで来ると霊宝を深江に届けようとする男山からの社人
ら一行と出会った。
16日のことであった。両者は喜んで宝器を授受し、松の小枝に開山大師感得十一
尊曼荼羅をはじめ軸の尊像を掛け、鐘を叩きながら松の周囲を喜んで踊って廻っ
たとう。
以来、本尊掛松遺跡、念仏踊り発祥の地だと言う。そこから薮の坂道を左にと
ると、すぐ山根街道と交わる。左が東高野街道、右が山根街道の分岐点(うえん
山の辻) ↓この分岐点の辻に、上ん山地蔵がおられる。 地蔵様の光背には「私
部村地蔵講中享保十乙巳年(1725年)3月24日とある。また「大峰山 右 宇治 
左 京 八幡 道」の大きな道標がり、その南側の小さい道標に「右 山根街道 左 
すぐ東高野道」と彫ってある。
元弘の乱(1337)で北条方が楠正成の下赤坂攻めにこの道を急ぎ、近畿平定には織
田長もここを通って岩倉開元寺を焼かせ、足利義昭の反抗の時には秀吉が義昭を
つれて急いだと言うこの道は、なるほど権力の道だ。真言密教の道であるととに
、文化を伝え、産業を興した大切な道である。道を隔てた東には、「閲武駐蹕記
念碑」がある。大正(1914年)大正天皇がここで陸軍大演習を統監されたことを記
念して建てられたものである。ここ「東高野街道」と「山根街道」が一つになっ
て星田に伸びている。                         以上



神宮寺より交野山


京2国道から三山を!


竜王山山頂から交野市内を望む


(平田さん撮影)

東高野街道と山根街道分岐点

洞ヶ峠付近の石標
(右 高野街道峠15丁津田二里

郡津・東高野街道

郡津神社

郡津に立つ東高野街道表示板

明遍寺
うえん山の辻 A
うえん山の辻 B
本尊掛松・大念仏寺道標
閲武駐蹕記念碑
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◆山根街道
二上山周辺はサヌカイトが豊富に産出し、旧石器時代(約一万年〜二万年前)から石器
、石材の安定した供給地であった。原材料のサヌカイトを媒体とした交易道が考えら
れる。即ち、二上山西麓→生駒山西麓→枚方台地のコースである。山麓の獣道が旧石
器時代の踏み分け道として活用され、更に、それが本格的な道として利用されるよう
になったのであろう。

交野方面の旧石器時代の遺跡は、藤阪宮山→津田三つ池→神宮寺→星田布懸(ほしだの
うかけ)→打上→忍ヶ丘というように、山根街道に沿って続いている。
山根街道は山の麓を廻りながら進み、街道沿いに村落ができ、神社や寺院が建てらて
、この地方の重要な道となった。
古代における山根街道の正確な道筋については、不明であるが、現在残っている古記
録によると交野市内では三つのルートがあったことがわかります。

1.「河内国興地便覧」(明治二年) 
長尾北峠→長尾→藤阪→津田(天平の津田寺、治郎兵衛宮、古城)→野→倉治(清水谷
古墳、倉治古墳群、機物神社、開元寺)→神宮寺(早期縄文)→寺(弥生中期、徳泉寺
)→森(弥生中期、須弥寺)→私市(弥生中期、天田神社)→星田(弥生中期、星田社
、星田寺、円通院、新宮山八幡宮、愛染津院)→大谷→打上から南へ続く。

2.「旭尋常小学校郷土誌」(大正六年)
「磐船村大字私市より来り、星田村を東西に貫通し、学校側を西に寝屋に貫走す。」
と記載されている。学校側とは、星田駅南にある旭尋常小学校を指し、当時は私市か
ら星田の村中をとおり、駅の南から西へ寝屋に通ずる道を「南山根街道」と呼んだ。
なお、星田村役場財産原簿に駅前の「4009番地の3の1畝13歩」その他三筆を、南山根
街道道路敷地として、明治39年に村が購入したと記されている。従来の道は利用が減
って、駅前を通るルートがこれに代わるものとして、整備されたのである。

3.「枚方市史」
「八幡→志水→長尾→藤阪→津田→から私部に出る街道も山根街道を称されて、往来
がひんぱんであった。」と書かれている。この山根街道は、私部の西、上ん山(うえん
やま)が終点で、大正天皇御幸記念碑の前がそれであり、本尊掛松の前を東高野街道
が通り、その分岐点に道標が二基建っている。
明治37年に大阪府が建てた道標には「山根街道私部、津田、山城道」とあり、「山
根街道」と書かれた道標はここだけである。 
神宮寺山添の山根街道

倉治の山根街道 A

倉治の山根街道 B
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◆条里制(じょうりせい)
条里制(じょうりせい)は、日本において、古代から中世後期にかけて行われた土地区画(管理)制度である。
ある範囲の土地を約109m間隔で直角に交わる平行線により正方形に区分するという特徴があり、現在も北海道と
沖縄を除く日本各地に条制の遺構が残っている。

成立過程
従来、条里制は班田収授制に伴い施行されたものと見られてきた。律令制では民衆に支給する(班田収授する)農
地の面積を一律に定めていたことから、整然とした条里区画は班田収授との強い関連が想定されていたのである。
(口分田も参照)しかし、考古学の研究成果によれば、条里制が全国的に広く展開し始めたのは古くても奈良時代
中期であり、飛鳥時代又は奈良時代初期に開始したと見られる班田収授との関連が重視されなくなっている。
奈良時代中期に顕著に見られた現象は、墾田永年私財法の施行で盛んとなった富豪や有力寺社による農地開発
(墾田)であった。このことから、条里制は富豪や有力寺社を中心とした民間部門による農地開発に伴って成立し
た、とする説が非常に有力である。

奈良時代前期に、班田収授に伴って条里制が布かれたのは、おそらく奈良盆地や大阪平野など一部の地域に限られ
たのだろうと考えられている。条里制の施行を示す文献は残存しておらず、地面に残るものだけが唯一の史料であ
ることから、条里制の成立を解明するには、まだ多くの障壁が存している。
上述の単位に区画された土地において、里の横列を「条(じょう)」、里の縦列を「里(り)」とし、任意に設定
された基点から、縦方向には一条、二条、三条と、横方向には一里、二里、三里というように、明快な位置表示が
可能となっていた。

※条と里 



◆交野の条里制
大化改新令の班田法(はんでんほう)奈良時代前期(七世紀)に、おこなわれた大化改新令により班田収授法が施
行された。
七世紀の初め頃、聖徳太子は、天皇の全国の統治者として「天下の土地人民の主は天皇だけだ。外の豪族たちの勝
手な徴税や人民使役はいけない。」(天にふたつの日なく、国に二つの王なし。この故に天下を兼ねあわせて、万
民を使いたまうべきは、ただ、天皇あるのみ。)といって、全統治者天皇と全人民を直結しようとする大理想を抱
かれた。しかし、それは当時、鼻息の荒い曽我馬子のために実現できず、法隆寺斑鳩の宮で亡くなった。
この聖徳太子の理想を受け継いで、ついにそれを実現したのが中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)で、それを制
度化したのが大化改新令である。
班田とは田を国民に分配することで、死ねばこれを国に収め、子供が生まれて六歳になると授けるというので収授
といい、その田を口分田(くぶんでん)といった。
こうした口分田(くぶんでん)を各人に公平に分配できるようにと、全国の河や湖に近くて、稲作に便利な所に、
条里制の区画を設けることになり、交野地方でも天の川付近やその他にこの区画ができた。
(交野市史より転載)
交野地方の稲田は弥生時代から開かれていたが、大化改新の際に、天の川沿岸の全域におこなわれた。
その地域は、南は、私市天田の宮から、北は枚方市禁野(ひらかたしきんや)−枚方市駅付近までの間、南北5
4町、幅は私市・森・星田付近の広い所で約18町、私部(きさべ)郡津(こうづ)付近から下流510町歩、約
505ヘクタールの面積であった。)


この条里制も藤原摂関政治の時代になると、班田収授法も崩壊し、貴族や寺社の勢力がつよくなり、荘園制が発達
して貴族や寺社への土地の寄進が行われた。寄進された荘園は管理人(荘官)により運営され、荘官は直営田をも
らい荘民に耕作させた。この土地を佃(つくだ)といった。現在では、私市・天田の宮付近に一条通り、佃通りの
地名が残っている。
また、京阪電車からも数年前までは、条里線が確認されたそうだが、今では家が建ち並び分からない。
私部には、町通り(ちょうどおり)−四条通り、枚方市の山の上が(古い名で南条村)−なな(七)じょう村など
と残っている。
 






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◆交野市全図


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◆交野の国宝=薬師如来坐像
交野市私市 高野山真言宗 獅子窟寺
(昭和43年3月16日新国宝指定

獅子窟寺・本尊薬師如来像は、カヤの木の一木造り、身の丈92aの等身大で、穏やかな面相はふくよかで奥行
きの深い量感にあふれています。平安初期、弘仁期(810-823)の作とされ、美しい翻波衣文(ほんぱえもん)に
包まれている。この尊像は一刀三礼のもとに三年三か月を費やして刻まれた。
薬師如来の脇侍として左右に立つのが日光・月光両菩薩です。悟りを開いた薬師如来のもとで、いまだ悟りを
開いてない両菩薩が修行をつむ姿を表しているのでしょう。「右日光・左月光」といわれ昼夜を問わず24時間
、人々の苦しみを救うための仏。さらに薬師如来の守護神としてつかえるのが十二神将です。
十二神将は、薬師如来の十二の願望に応じて現れる十二の分身で、一神がそれぞれさらに七千の従者をもち、
合計八万四千の力によって薬師如来の願いをかなえるために守り続けるといわれます。また、昼夜12時間ずつ
、一年十二ヶ月ずつ十二神将が交替で守護するものといいます。

また、日本の立派なお寺の中に獅子窟寺が入っているので紹介しておきます。
「日本九品浄土事」の中に・・・日本の九品トハ何レヤ
・上品上生→高野山
・上品中生→天王寺
・上品下生→賀峯山・忍頂寺(大阪・茨木)
・中品上生→師子岩屋(大阪・交野)
・中品中生→金峯山(奈良・吉野)
・中品下生→大安寺
・下品上生→熊野山
・下品中生→東寺
・下品下生→東大寺
よって、獅子窟寺はこのように日本の立派なお寺の中にある。






◆交野の重文:快慶作・阿弥陀如来立像 
傍示の八葉蓮華寺







 市内指定文化財紹介= 山添家 

 市内指定文化財紹介= 北田家住宅 
文化財保護法の制定について=交野市の指定・登録文化財 
市内指定文化財紹介=交野市立教育文化会館 
市内指定文化財紹介=山野家住宅・天野川堰堤 







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天の川

天野川は生駒を水源とし、磐船の渓谷を流れ交野平野を潤し、淀川に注いでいます。そして、その支流とともに土地に潤いを与えながら、はるか昔から人々に愛されてきました。肩野物部氏(かたのもののべし)の一族が、この天野川の流域で米作りを始め、やがてこの一帯は「甘い(おいしい)米のとれる野」甘野、甘野川と呼ばれ、それが後に天野川といわれるようになったと伝えられています。

「交野郷土史かるた」より
大昔、饒速日命(にぎはやひのみこと)が磐樟船(いわくすぶね)に乗って哮が峰(たけるがみね)に天降ったという話、また、平安時代に入って、むかしの甘野川は天野川 となり、天上の天野川にあてはめた七夕の話等いろんな伝説に富んでいます。これらは天野川流域の農耕文化の発展を意味していると思われます。

万葉集の中に、交野郡では石船(いわふね)と片足羽川(舟橋川)とが詠まれている。伊勢物語に「狩り暮らし たちばなつめに 宿からむ天の河原に 我は帰にけり」と 在原業平(825〜880)が歌っている。 天野川の歌ではこれが最古である。このことから、 天野川の名称はその由来を平安の初めに求めてもよいのではと推察される。

天野川の天女の説話が『河内名所図会』や『伝説の河内』に紹介されている。「天野川、むかし、一人の仙女あり。此渓水に浴し逍遥する所、少年の戯れに其衣をかくす。故に帰る事能わず。遂に夫婦と成りて後三年を経て飛び去る。故に天川と号す。」 
天女の説話は通常羽衣説話といわれて、沖縄から青森に至る各地に広く分布している。このような説話が生まれている場所は、いづれも風光明媚なところに限られている。私たちが愛してやまぬ天野川に、このような説話が生まれたのは、往時における交野が原の天野川の風光が、きわめて清幽佳麗であったからであろう。川の上流、磐船神社から田原に出る所に羽衣橋がある。更に生駒市南田原の住吉神社は、星が森を背景とし、龍が渕(池)を廻らす広域の地に鎮座し、この湧き出る清水は枯れることなく、天野川源流の一つになっている。

鎌倉時代、交野に遊吟に訪れた藤原為家(1198〜1275)は、堤防も橋もなく、流れるままの天野川が増水して川幅が一段と広くなり、渡るのが困難であった様子を次のように歌っている。
     天野川 遠き渡りに なりにけり
  かた野の御野の 五月雨のころ
天野川の源は、生駒山の下の北より流れ出で田原と言う谷を過ぎ、岩舟に落ち、私市村の南を経、枚方町の北へ出て淀川に入る。 獅子窟山より天野川を見下ろせばその川、東西に直に流れ、砂川に水少なく、その川原白く、ひろく、長くして、恰も(あたかも)天上の川の形の如し、さてこそ、この川を天野川とは、只天野川の流れの末ばかりを渡りて、古人の天野川と名付けし意を知らず。おおよそ諸国の川を見しに、かくのごとく白砂のひろく直にして、数里長くつづきたるはいまだ見ず。天野川と名付けしこと、むべなり。
 岩船より入って、おくの谷中七十八町東に行けば谷の内やや広し。その中に天野川ながる。其の里を田原と云、川の東を東田原と云、大和国也。川の西を西田原と云、河内国也。一潤の中にて両国わかれ、川を境とし名を同じくす。この谷水南より北に流れ、西に転じて、岩船に出、ひきき所に流れ、天川となる。(中略)
この谷の奥に、星の森有り。星の社(現在の星田妙見宮)あり。其の神は牽牛織女也。これ二神をいわれり。」
六十才の翁は、春浅い天野川の情景に心をときめかし、綴った。この天野川の情景こそが、またこの自然風土があってこそ、交野の当地に素晴らしい伝承文化が生き続けてきたのである。交野山を仰ぎ見て、天野川のせせらぎに耳を澄まし、古代の人々はこの郷土の中で何を感じたのであろうか。(星田妙見宮・ちらしを参照)明治初年の堺県星田村絵図に、天野川のことを「天之河」と「銀河」と二つの名前で記されてる。
 岩船小学校付近の小字名「船戸」は、かって天野川の船着場であったと言われるところから、古い天野川の増水時の川幅は、広い所で1キロ以上はあったのだろうか。現在の逢合橋の長さが34.7メートルで、江戸時代寛延2年(1749)の記録では 天野川川幅平均70間(126メートル)で、現在の川幅の3.7倍も広かったが明確である。私市から枚方まで 天野川流域はに、昔の川原の広大であったことを裏付ける小字名が多数記録として残っており、一例を挙げると、府道久御山線に架かる交野橋の東、即ち 天野川の右岸の小字名に東川辺、中川辺、西川辺があり、現在は天野が原1丁目〜5丁目となって宅地化されている。
 昭和24年の記録によると、JR学研都市線の南にある 天野川橋から逢合橋までの1300メートルの間で、天野川左岸の河川敷を48ヶ所に区画して、星田の29人が借地として耕作していた。その最大幅は25bとなっている。
沿岸のこれらの土地は、最小必要川幅に整理され、農地又は宅地に、或いは緑地化され、川は枚方から上流に向って川底の浚渫と堤防の護岸工事が進捗し、私市橋まで進み、更に「星の里いわふね」の整備された川辺では夏ともなれば、水と戯れる元気な子供たちの歓声でいっぱいである。
 天野川緑地は、昭和50年に総面積4ヘクタールの緑地として都市計画が決定され、私市橋から星田中川合流点までの左岸1.1キロが天野川の河川敷を利用した緑地公園として整備された。春には、枝垂桜とユキヤナギが咲き乱れ、散歩する市民で賑わっている。
交野の古代文化は、弥生時代に渡来した 天野川流域を中心とする稲作と、山麓地帯に広がるこれも渡来人による機織集団の二つの系統の文化に分けられるが、牽牛・織女の伝説はとりもなおさずこれらの文化の融和、合流といえるのではないか。
交野の川は多いが、有名人の古歌に歌われる川は殆どと言って良いほど 天野川で、天野川は実に交野の台地の母なる川であることを、改めて思い知らされるのである。




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免除川

「めんじょがわ」と読む。この川の源流は交野山の頂上のすぐ北の谷をせき止めてつくった白旗池である。白旗池は流入する川はなく、谷の湧水を貯えている。池を出た水は、谷をうがって、源氏の滝となって流れ落ちる。この滝をでて、平野部を流れ下って、郡津の松塚団地から天野川に注いでいる。
白旗池は、交野山の北の谷をせき止め、湧水を蓄えて造った池で、市内で3番目の大きさを誇り、オシドリの飛来してくる池として知られています。
 かつては、ふもとにある倉治村の人たちにとって生活していく上で、なくてはならない水源地でした。

 免除川の名前は、この川は元々は機物神社の北側を流れ下っていた。しばしば倉治地区で洪水を起す。被害をなくす為、川の付け替えを計画し、倉治、私部、郡津領の田畑に新しく川を通した。
その代わり川沿いの田畑については、年貢を免除した。時期は室町時代のことだといわれている。
 春は、川沿いの桜並木が素晴らしい。
 この川は、源氏の滝から機物神社の南を通り、郡津地区と私部地区の間を流れ、さらに長宝寺小学校の南側から松塚地区を抜けて、天野川へと注いでいます。
 免除川は、もともと機物神社から倉治の集落に向けて流れていたといい、たび重なる土砂災害を防ぐために付け替えられたという話が残っています。
 近年の有池遺跡や倉治遺跡の発掘調査により、古墳時代にさかのぼる旧河道の跡や集落跡が見つかっており、中世には灌漑システムを完備した水田域と溝で区画された屋敷地なども発見されています。
 扇状地特有の自然災害と戦いながら生活を送っていた人々の苦労が偲ばれます。
春は、免除川の堤防沿いの桜は見事で、薄緑色の葉と純白の花が可愛らしい。この桜は「大島桜」といい、若葉と同時に花が咲くのだそうだ。
 「ふるさと創生資金」で免除川の堤防に沢山の桜が植えられたそうで、府道久御山線を越して源氏池まで大島桜が綺麗に植樹されている。また秋の紅葉の頃の桜も見ものである。
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