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饒速命日の足跡と唐子・鍵遺跡を尋ねて

平成20年12月3日(水)
交野古文化同好会


行  程
長髄彦本拠の地→鳥見白庭山の碑→矢田坐久志玉比古神社→
奈良県立民俗博物館(昼食)→稗田環濠集落・売太神社→
     唐古・鍵遺跡→唐古・鍵考古学ミュージアム

交野には日本の国の始まりの頃の神話が伝わっており、饒速命日(ニギハヤノミコト)が天照大神の命を受けて
<豊芦原の中津国>(※日本の一番古い呼び方)おさめるため、天の磐船という船に乗り大空を飛び饒速命日が
天から船で降りてきたのが交野の哮が峯でした。そして、饒速命日がそこから峠を越えてならの白庭山へ入り
後に<やまと>で国を築き、神武天皇に仕え子孫は物部氏と名乗り、交野やならに広がったと伝えられているの
です。
「先代旧事本紀」による史実、歴史学者の饒速命日の研究の跡を少し覗いて見るために去る11月22日の
古文化同好会の勉強会をもとに(講師 高尾さん)饒速命日の「やまと」入りの足跡をたどること
になりました。高尾さんよく勉強され、またいろいろ文献をもとに研究いただき解説・引率大変ご苦労様でした。


奈良県立民俗博物館花の広場で

12月3日(水)午前9時、私部・焼肉久太郎の駐車場を出発。参加者は古文化同好会の41名。天候晴天、申
し分のないツアー日和となった。車中、高尾秀司さんより11月22日の勉強会での内容、先代旧事本紀の天孫
降臨神話に迫る「甦る饒速日命」古事記、日本書紀、先代旧事本紀に書かれている饒速日命関連について、また
饒速日命が九州から瀬戸内海・讃岐・兵庫・淀川・平潟の津、天の川、交野・磐船越・登美白庭・大和に君臨す
るまでの足跡などを解説された。

※ 参考資料
饒 速 日 命
(にぎはやひのみこと)
 
別  名
★ 櫛玉命(くしたまのみこと) アメノホアカリと同一視
★天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる くにてる ひこあめのほあかりくしたま にぎはやひの
みこと)アメノホアカリの別名
★天照國照彦天火明尊(あまてる くにてる ひこ あめのほあかり の みこと)  ★天照国照彦火明
命(あまてるくにてるひこほあかり) ★天火明命(あめのほあかりのみこと)  ★彦火明命 ★膽
杵磯丹杵穂命 ★天照御魂神 ★櫛甕魂=大物主命(ニギハヤヒの別名、櫛玉命と同じとする論者る)

ゆかりの主な神社
★照玉命神社 ★ 石切剣箭神社  ★國津比古命神社 ★物部神社
★矢田坐久志玉比古神社
 飛行神社 - 大正時代に飛行機の神として創建。 祭神同一視神社
★真清田神社 - 尾張国一宮。(祭神の天火明命は本名を天照国照彦天火明櫛
 玉饒速日尊と社伝にいう) ★籠神社 - 元伊勢の最初の神社。(祭神の彦 火明命はニギハヤヒの
別名と
  社伝にいう)
★大神神社 - 最古の神社といわれる。(祭神の大物主大神はニギハヤヒの別
 名との説がある)

ニギハヤヒ 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ニギハヤヒノミコトは、日本神話に登場する神。『日本書紀で』は饒速日命、『古事記』では邇藝速
日命と表記する。『先代旧事本紀』では、「天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊」(あまてる くにてる
ひこ あまのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)といいアメノオシホミミの子でニニギの兄で
あるアメノホアカリと同一の神であるとしている。
「古事記」では、神武天皇の神武東征において大和地方の豪族であるナガスネヒコが奉じる神とし
て登場る。ナガスネヒコの妹のトミヤスビメ(登美夜須毘売)を妻とし、トミヤスビメとの間にウマ
シマジノミコト(宇摩志麻遅命)をもうけた。ウマシマジノミコトは、物部連、穂積臣、采女臣の祖
として
いる。イワレビコ(後の神武天皇)が東征し、それに抵抗したナガスネヒコが敗れた後、イワレビコ
がアマテラスの子孫であることを知り、イワレビコのもとに下った。
『日本書紀』などの記述によれば、神武東征に先立ち、アマテラスから十種の神宝を授かり天磐船
に乗って河内国(大阪府交野市)の河上の地に天降り、その後大和国(奈良県)に移ったとされてい
る。これらは、ニニギの天孫降臨説話とは別系統の説話と考えられる。また、有力な氏族、特に祭
祀を司どる物部氏の祖神とされていること、神武天皇より先に大和に鎮座していることが神話に明
記されていることなど、ニギハヤヒの存在には多くの重要な問題が含まれている。大和地方に神武
天皇の前に王権が存在したことを示すとする説や、大和地方に存在した何らかの勢力と物部氏に
結びつきがあったとする説などもある。『新撰姓氏録』ではニギハヤヒは、天神(高天原出身皇統
ではない)、アメノホアカリは天孫(天照の系)とし両者を別とする。




好天に恵まれ同好会会員41名を乗せたバスは午前9時に出発

最初の訪問地白庭台から長髄彦本拠の地の途中

稲葉谷行者石仏(いなばだにぎょうじゃせきぶつ)が突如現われる

※白庭団地入口に、周りをコンクリートで固めた祠がある。上町白谷と南田原稲葉谷との境の崖の露出岩
を船型に彫り凹めて、役の行者像が掘り出されている。安永7年(1778)の紀年が入っている江戸中の
作で、丹念に彫り込んだ写実的な石仏である。(村田さんのURL:星のまち:より)


長髄彦本拠の碑・鳥見白庭山の碑
長髄彦本拠の碑
(ながすねひこほんきょのひ)
「先代旧事本紀」巻第三 「天神本紀」に饒速命
日、すなはち長髄彦の妹、御炊屋姫を娶りて妃(
みめ)となし。とある長髄彦命の本拠地であった
思われる所に建てられた石碑
(逆光で文字が見にくい・・・)

鳥見白庭山の碑
「先代旧事本紀」に河内国河上哮峯に天降り坐(ま)
し、則(すなは)ち大倭国鳥見の白庭山に遷(うつ)
り坐(ま)す。と書かれているその碑である。地元の
人の話では役の行者の石像のある辺りもすべて山であ
ったそうで、今は開発されて平地になったらしい!
饒速命日の墳墓へ
生駒白庭台南の新興住宅の開発が盛んな一角を
上がった処が饒速命日の墳墓入り口(檜の山)
墳墓への道は標識も無く、僅か落ち葉を踏みしめた位の怪しい道だ!20分位で墳墓だ!
饒速命日の墳墓(寂しく石柱が置かれている)
高尾さんから説明
石柱の後ろに小石が意味有りげに盛られ何が
埋もれているのか不思議な想像をかき立てる
矢田坐久志玉比古神社
(祭神 饒速命日・御炊屋姫命)
飛行神社の別名がある、飛行機のプロペラが
奉納され航空関係者のお参りが多いとのこと
※ 解説 矢田坐久志玉比古神社
(やたにいますくしたまひこじんじゃ)
大和郡山市矢田町965 0743-52-7313

物部氏の祖先である饒速日命(にぎはやひのみこと)
を、祭神とする神社。航空機のプロペラが、シンボルに
なっている珍しい神社 矢田坐久志玉比古神社のご祭神
は、櫛玉饒速日命 御炊屋姫命 2座。また、饒速日命
が天の羽々矢3本を射て、その落ちたところを住まいと
定めたが、そのうち二の矢がこの神社の境内に落ちたと
されている
饒速命日がこの地に縁が深いことに思いをはせて記念撮影
二之矢塚
かって矢落明神(やおちみょうじん)と呼ばれていた。
饒速日命が天の羽々矢3本を射て、その落ちたところを住まいと定めたが、
そのうち二の矢がこの神社の境内に落ちたとされている

さーて!本日、楽しみの昼食場所へ移動、バスで約30分「奈良県立民俗博物館」へ到着です。 
 
奈良県立民俗博物館 
大和郡山市矢田町545 0743-53-3171  

県立民俗博物館をはじめ、緑地公園や児童広場、そして移築復元した民家九棟が配置されています。 
当日は、素晴らしい好天に恵まれ、広い公園内のしょうぶ園にて昼食  
奈良県立民俗博物館
1974年(昭和49年)会館。奈良に 暮らす人々が、
その風土の中で育み 改良を重ねながら維持してきた生
活 用具・民具など約4万2千点を収集、 保存・展示公
開する博物館です。こ の博物館は大和民俗公園内にあ
り、 他にむかし懐かしい江戸時代の民家 15棟が「町
屋」、「国中」、「宇陀」・ 「東山」・「吉野」の4ブ
ロックに分け、 復元展示している。 

次に稗田環濠集落の見学 

稗田環濠集落
(ひえたかんごうしゅうらく) 

交野にも倉治地区と郡津地区の一角に環濠集落があったと推測されているが、 
奈良県郡山の「稗田環濠集落」は奈良県内でも唯一、完全な形で残っている。 
中世の平城に起源をもつものと考えられ、争乱の中、農民たちが自衛のために 
農業利水の便をはかる歴史的にも注目される村づくりの形である。 


広大な大和平野の一角にポツンと水郷に囲まれた集落、外敵からの防御、作農に生かし た水郷、村内の道は迷路に等しく合理的。又、村内の建物は立派な家が多く不思議だ! 

環濠内には古事記の伝承者である「稗田阿礼」を祀る「売太神社」があり、宮司さんに 
丁寧な古事記のいろはと売太神社のお話を拝聴することができた。 


     賣太神社 (めたじんじゃ)  
「古事記」の伝承者として知られる稗田阿礼(ひえだのあれ)を祀り、現在は童話の神様として親
しまれている。 大きな森 を保ち、神社を中心として稗田集落の環濠が発達したようすを示している
が,このような様相は若 槻環濠や番条環濠でも みられる。山辺の道を歩くと、あそこにも菅生(あ
のう)の環濠集落が若干残ってい るが、ここのように、集落全体とし て現存しているのは極めてめ
ずらしい。 主祭神 稗田阿礼 副祭神 天 宇受売命 猿田彦命稗田阿礼は天武天皇の命により古事記
を作る時、太安麻呂に古事を物語った人。 稗田阿礼は天宇受売命(猿女君)の子孫であるという。稗
田の猿女君は天皇より多くの田を賜りその田を猿 女田と呼んだ。のち猿の字を略し女田(めた)と呼ぶ
ようになり売太神社と称するようにな
 
稗田環濠集落・売太神社を見て、学識を高めた会員諸氏、エンジン全開更なる訪問地の唐子・鍵遺跡を 目指して奈良県田原本町へバスは走ります。還暦は過ぎて古希を迎えんとする老人軍団はみな元気!



唐古・鍵遺跡の概要 

唐古・鍵遺跡は、奈良盆地のほぼ中央、初瀬川と寺川に挟まれた沖積地に営まれた弥生時代の環壕集落の跡で
ある。環壕遺跡としては近畿地方では最大、全国的にも佐賀の吉野ヶ里に次ぐ30fの広さを持っている。相
当な人数 の人達が弥生時代全般に渡ってここに居住していたものと思われる。この遺跡には調査の手が入らな
かったが約40 年を経て調査が再開され、平成9年3月までに63次に及ぶ発掘調査が行われ、ムラを取り巻く
五重の環濠や、縦穴 住居跡、青銅器の鋳造炉跡(平成10年)などが発見された。調査は現在も継続中という。
また、土器、木製品、糸魚 川産のヒスイなど、弥生時代の遺物の殆どが出土している。出ていないのは銅鐸そ
のものぐらいである。 しかし銅鐸の鋳型は発見されており、銅鐸を使用或いは製造していた事は間違いない。
かなり大規模な青銅器生産 集団が居住していたものと考えられている。しかし、この遺跡の名を有名にしたの
は、平成3年に発見された「楼閣」 の絵が描かれた土器の破片である。 
「邪馬台国」の楼閣に結びつくというのでマスコミが飛びつき、唐古・鍵遺跡の名前は一躍全国的になった。
実は、こ の遺跡は約90点の絵画土器を出土しており、全国の絵画土器出土総数の約3分の1を占めていて全国
の半数位の 絵画土器が集中しているらしい。 
特徴的な「楼閣」の絵は、二階建ての高層建物を現した、全国的にも類例のない建物絵画で「邪馬台国」の「楼
閣」に 結びつけてロマンが膨らむ。田原本町では遺跡のシンボルとしてこの建物を、遺跡のほぼ中央、唐古池
に復元した

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