ホームへ
戻る


私部城周辺を訪ねて

第 6 回
2008,11,26




 
私部城 今は名のみ 城の跡
(郷土史 交野かるた)

私部に館城(やかたじろ)を築いたのが安見一族です。
安見家の祖先は南北朝時代の初期、南朝方につき、足利軍と戦いました。のち北朝方に移り、畠山氏
が楠木勢の鎮圧のため河内守護職となってから、代々畠山の重臣としてあつかわれました。一時は畠
山氏にかわり河内守護職ともなりましたが、戦いに敗れ、滅びました。城は大和の筒井勢に落されたと
いいます(郷土史 交野かるた)

私部城跡


私部城石標

現在地図に落とし込んでみました(多少のクルイお許しを!)

私部城
交野郵便局のすぐ東に南から北に伸びた土塁がある。さらにその東に三つ、合計四つの土塁が、おのおのの切通
しをつくって区分している。天主と呼ばれる土塁から西よりで道を挟んだ南に鍵状の池が残っていて、本丸と呼
ばれていたが鍵状の短い部分が池として残り、東に伸びた長い部分は土盛りされて戦国の夢も残土の中に埋まっ
てしまった。
「北河内史蹟史話」によると、・・・・・城郭の構えは平城であって、天守閣の名は存しているけれど、実際は
無かったもであろう。恐らく高櫓の所在地を後人が指したもではなかろうか。本城は「交野城」とも言い足利時
代に畠山長政系に属する家臣安見氏の居城であった。
  

ホームへ
戻る



inserted by FC2 system