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東高野街道筋(郡津)を訪ねて
第 4 回
2008,9,24

【パトロールコース】
京阪郡津駅→極楽寺→丸山古墳→藪の下→大塚・梅塚→伝説:ものきき・茶屋の清水・蚊封じの池
→五条通り石碑→明遍寺→長池→倉山→郡津神社(白鳳:長宝寺跡)→私部
郡津の茶屋町附近
郡津神社

郡津の地名の由来

古代律令(りつりょう)体制(たいせい)時代(7世紀後半頃)に、交野郡(かたのごおり)に郡衙(ぐんが)役所が設
けられた。それが現在の倉山(くらやま)の地で、私市(きさいち)から枚方(ひらかた)まででとれた年貢米(ねん
ぐまい)を、当時の長であった郡司(ぐんじ)さんが、この倉山の倉におさめて管理していた。その周辺に長宝寺
(ちょうほうじ)という立派なお寺が建てられた。交野で一番古いお寺である。
時期は白鳳(はくほう)時代(じだい)(七世紀後半、約1300年前)。郡津(こうづ)は昔「郡門(こうど)」といった。
郡衙(ぐんが)に入る所に門があり「こうど」といった。いつのまにか、「ど」が「づ」にかわり、江戸時代に
、こうづの発音どおり「郡津(こうづ)」と改められた。郡津の村は、環濠集落(かんごうしゅうらく)=【外敵
から財産や身を守る村】、と言われている。
村から出る所に、東ノ口、西口、西代(にしんだい)などの地名が残っている。防御策(ぼうぎょさく)として溜
池(ためいけ)、長池などが利用された。また、台地上に集落があり、谷を防御に村の財産や人の命を守るよう
に作られている。長宝寺小学校の北側は、春日宮(かすがのみや)、お出(おで)待ち(まち)、大門(だいもん)、
やぐら池、鳥(とり)待ち田(まちだ)など、楽しい歴史的地名が残った土地である。

愛宕灯篭
極楽寺前のお地蔵さん ※右下に「郡門」の文字
極楽寺(融通念仏宗、平野大念仏寺の末寺)1345
年頃に創建れ、大阪冬の陣(1614)で全焼、1688
(元禄元)年に仮本堂が出来1700年代は隆盛した
がその後老朽化が進み明治35年に再建。
駅の北側の踏切を東へ越えて小川を渡り、少し行った
T字路を左折し北進すると、弘法大師の常夜灯(大峰
山講、文政10年、1827年の銘がある)に出会う
。今も、地区の皆様が月2回常夜灯のお世話をされて
大切に守られている。
丸山古墳登り口と石柱

伝 説  <ものきき>
郡津の北を東から西に流れる川を北川という。枚方
市村野と接している。この北川に架かる出鼻橋から
東高野街道を南にやってくると左に交野女子学院の
建つ「渋り」、そして、右に「笹の山」、左前に北
尾の集落の建つ梅塚の台地に達する。この梅塚の台
地に上がるために道は切り通し状になっていて、道
の両側が崖になっている。昔は、この崖や崖上に大
きな松が茂っでいて薄暗くなっていた。郡津の人々
が何か心配ごとや悩みごとが起こったら、朝早くこ
の松の木に潜み高野街道を朝―番に通る人々の話の
中から解決する言葉を聴き取ったという。そのよう
なことから、このがけ道を「ものきき」と呼んでいる。
伝 説 <茶屋の清水>
昔ある日のこと、茶屋にみすぼらしい僧が来て水をいっ
ぱい所望したが、誰も水をすすめるものが居なかった。と
ころが上茶屋で水を汲んで差し出す人がいた。その僧は
弘法大師でそのお礼に清水の湧き出る場所を教えた。



現在の<ものきき>附近の写真
茶屋の清水の話
蚊封じの池

 上茶屋から南に下ると、明遍寺の北から郡津駅に通じる道と交差する。
この交差点を北から南に越した東側が「蚊封じの池」だという。
昔、弘法大師がここでお休みなった時「蚊が地面から三尺のところまで
来るな」とお祈りをされた。以来ここには蚊が来なくなったという。

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