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星田地区の文化財

第 3 回
08,7,23


今回は星田地区の薬師寺・星田寺の有形文化財を中心にパトロールを実施しました。 星田駅を起点に、東へ
伸びている道路を行くと、交野市で初めて信号機がついた「六路の辻」に出ます。ここが星田への出入口です。
星田の旧村の道は、いずれも曲がって見通しがきかず、三辻や四辻として複雑に交差し、侵入者を迷わすよう
に工夫して作られた道で、今も江戸時代に描かれた絵図のままの形を保っています。


 薬師寺
六路の辻から星田小学校の正門前を通り、西の村の本通りの細い路地をしばらく行くと、右に土塀と大きな門
構えの家が見えます。その前の路地を入ったところに薬師寺があります。古いお堂の小さな門をくぐると、土
塀の西側に十数体の石仏さんが並び、中世の世界にタイムスリップしたような気になります。普段は公開され
ていませんが、11月21日は公開日で、予約(特集ページ「市指定文化財の一般公開」を参照)の上、見学がで
きます。
本尊薬師如来立像
千体仏

木造薬師如来立像(平成2年6月1日市条例有形文化財指定)室町時代
像高158センチ・ヒノキ材・寄木造り
当山は瑠璃光山薬師寺といい、宗派宗旨は大念仏宗でしたが、現在は浄土宗知恩院の末寺です。創建は不明で
すが享和3年(1803年)の「星田村明細帳」には寛延2年(1749年)より五十年前ほどに一念という
僧が再建したとあります。この像は等身大の仏像で玉眼が埋め込まれています。両足を揃えて台座に立ち、左
手は軽く肘を曲げて薬壷をとり、右手は屈臂して掌を前に五指を伸べる。

■木造千体仏
{薬師如来立像472体・地蔵菩薩坐像192体・地蔵菩薩立像5体・菩薩形立像2体} (平成2年6月1
市条例有形文化財指定)室町時代星田の有力者が願主となり、一千体の薬師如来像と何百体もの地蔵菩薩像が
作られたと考えられます。追善供養の三十五日は地藏菩薩、四十九日は薬師如来を本尊として供養するにあた
り、亡き人たちの冥福をいのっての造立かと考えられています。当寺の交野地方に残る信仰を物語る貴重な文
化遺産です。

■古式地蔵さん
その中の1つ、地蔵菩薩は、頭の後ろに三重の円光背が刻まれ、右手は腕を下げています。新しい時代の地蔵
菩薩は右手に錫杖を持っているので、ここの地蔵菩薩は古い形式のものであることが分かります。保存状態も
良く、やさしいお顔のお地蔵さんです。 私市の弘安地蔵と同じ古式地蔵で、鎌倉時代中期〜南北朝時代につ
くられたものと思われます。

■阿弥陀如来さん
地蔵菩薩の左に立っている阿弥陀如来立像は、長方形の石に、頭が大きく厚肉彫りされ、首には3本のしわが
あり、ふくよかさを示し、足の指もしっかりと表現されている立派な石仏さんです。
ほかにも、双仏石や首から上がない阿弥陀さん、慶長十二年(1607年)の「南無阿弥陀仏」の名号碑、上に
くぼみがある唐臼地蔵、宝瓶三茎蓮など、珍しい石仏さんが並びます。
また、薬師寺には、市指定文化財の薬師如来立像や千体仏などがあり、現在、住職はいませんが、星田の人た
ちの善意により、大切に守り伝えられています。
 
薬師寺の石仏群(左が阿弥陀如来、左から2番目が地蔵菩薩)

 光林寺
薬師寺から、西の村の本通りへ出て、最初の辻、「いびつの三辻」と呼ばれる辻を北に行くと、降星伝説「八丁
三所」の1つとして有名な光林寺があります。境内の左手奥に、降ってきた星の1つとされる「影向石」がまつ
られています。
光林寺には、影向石のそばに阿弥陀如来坐像、本堂の後ろの墓地にも方形に加工された石材の中に彫られた阿弥
陀如来立像など、たくさんの石仏がまつられています。
 
 慈光寺 
■十三仏
光林寺から「いびつの三辻」まで戻り、西の村の本通りを東に行き、中川通りにでると、右手に慈光寺があり
ます。慈光寺の境内には、市内でただ1つの十三仏があります。この石仏さんに彫られた十三体の仏は、人が
亡くなって初七日から三十三回忌までの13回の追善供養仏事に当てはめられた仏さま・菩薩さまです。故人は
これらの仏さまに守られて成仏していくと考えられています。 

十三仏
  
 星田寺
 慈光寺を出て南へ進み、中川通りの左に曲がる最初の辻を東へ行くと、右に星田神社の鳥居が見えます。
神社の境内に入り正面が本殿、左奥が星田寺です。

星田寺の境内に入り、左に本堂、右に市指定文化財(平成2年6月1日)の「十一面観音立像」が安置されて
いるお堂があります。  
 星田寺の十一面観音立像(廃小松寺〜星田神
社〜星田寺)
星田山中の小松寺の根本草堂に安置されていた十一
面観音立像は、寺の荒廃により元禄16年(1703)に星田
神社の古宮の北の観音堂に移された。
十一面観音立像は明治初年の神仏分離後、星田寺
に移された。
当寺は、山号を三宅山、院号は花岳院で、宗派は東寺
真言宗で、開祖の年代は明らかではないが長治2年
(1105)の奥書「金剛界大潅頂次第」(河内長野市・金剛
寺)に星田寺の名がみえることから、平安時代には在
していたことがわかる。当時は古くから星田の氏神の
神宮寺であった。

※ 十一面観音は
十一の顔がある観音像を指し、平安時代に多くつくられ
ている。ふつう頭上にミニ仏面をつけており、前の三面
は慈悲相、左の三面は忿怒相(ふんぬ)、右の三面は白
い牙を出した相になっていて、すべての方角にいる人々
を救うという。てっぺんの一面のみを仏(如来)面とし、

後ろの暴悪大笑相は、人の悪を暴露し、さげすみ冷笑
する姿を表している。前の三面は素直に仏の教えに従
う人に慈悲を垂れ、左の三面は善行の人をほめたたえ
、後ろの一面にある笑面はゆとりを表している。

星田寺の石仏群は、昭和54年1月に古文化同好会の有志が、星田寺境内から掘り起こして整備したものです。
この埋まっていた石仏さんたちは、明治初期に行われた廃仏毀釈(政府の政策により行われた仏教施設の破壊)
で、石仏が破壊される危険が迫ったため、村人たちが境内に埋めたものです。

写真右から2番目に、顔が削り取られた石仏さんが写っていますが、これはその際に、なされたものでしょう。
星田には、お寺以外の場所にも、たくさんの石仏さんがあり、新しいお花などが供えられ、地元の人たちによ
って大切にまつられています。

星田」は次の二つの意味があると言われている。一つは字のとおり星信迎である。もう一つは、「干す
(ほす)」、いわゆる「干田(ほしだ)」、や牧場、荒地という意味である。今から1300余年まえの大
化の改新でできた条里制では、中川筋から西に条里が無いのは、用水の不足で稲作ができず、干し田又は、
乾し田(後に星田)として牛馬放牧の地となっていたからなのである。

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