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第2回 ふるさとウォーク 22,5,12
〓ふるさと交野を歩いて知ろう文化財〓


交野ドーム→第二京阪国道→逢合橋→砂子坂→山根街道(青年の家で休憩)→住吉神社→交野ドーム
天気予報が「うす曇・風が冷たく肌寒い」日であったが、40名の方々が参加されました。
リーダーの平田さんの挨拶があり「ふるさとウォーク」の主旨である〓ふるさと交野を歩い
て知ろう文化財〓の確認と第二京阪国道の側道を利用して文化財を訪ねる、美容と健康、気楽
に元気で歩こう!などユーモア溢れる挨拶のあと10:20ドームを元気に出発しました。
京阪第二道路の側道でナイスショット!
少々、肌寒い中ご参加の皆さん
リーダー平田さんの挨拶
 官田の説明(私部南2〜3丁目付近
 官田は律令体制下での天皇の供御田(くごでん)をいう。宮内省管轄下の直営田で、大和、摂津、河内、山城に合計100町歩あった。供御とは貴
人の食事をいうが、特に天皇の食事を指していう言葉である。供御田は天皇の主食となる米を生産した水田である。
大門の地名由来
落合橋から関スパへ一本道が田んぼの中にずうっと通っている。その左右付近で昔は素晴らしい田園風景だったと言う。
戦国時代末期、私部の豪族、北田久左衛門尉好忠が大和郡山の筒井順慶と戦ったという。その時、好忠は落合橋の南に出城を造って、磐船街道から侵
入して来る敵に対して私部の前面で防ごうとした。その館跡を「大門」と呼んだ。この道路に覆いかぶさるように門が建ち、上に望楼を備えたもので
あったといわれる。
 第二京阪国道開通にあわせ設置される天の川と国道交点の遊歩道
の憩いの場に「天の川を美しくする会」から歌碑が贈呈された
歌碑 「天の川 遠き渡りになりにけり 交野の御野の 五月雨の頃
     続後撰和歌集  藤原為家 (藤原俊成の孫)
【通釈】あまの川は雨で増水し、向こう岸は遥か遠くなった。交野の御野の五月雨の季節――
◇交野 河内国の歌枕。今の交野市・枚方市あたりの平野。皇室の狩猟地だったので「御野(みの)」と呼ぶ
(続後撰和歌集 秀歌選の解説から)
スタコ坂の地名の由来
『スタコ坂(砂子坂)』のスタコは古くは「スダコ坂」と言っていた、北田家(私部の代官屋敷)の古文書にも書かれていて、天の
川の中州?で、土砂で出来た小高い台地で、今の交野駅や梅が枝団地(旧地名の西の口や長砂(なごさ))へ下る場所、「砂子坂
「スダコ坂」」と付けられた。天野川に合流する地点なので、、土砂のたい積も甚だしかった、従って洲(す)が発達する。いわゆ
る中州である。この中州が大きくなって冠水する心配もなくなると村人はこの洲の開墾を始める。初めは畑、後には田んぼというこ
とになるが、砂地であるため水もちが悪い。いわゆる洲田(すだ)である。その洲田のある高台へ上る坂という意味である。
山根街道を歩く
山根街道は山の麓を廻りながら進み、街道沿いに村落ができ、神社や寺院が建てらて 、この地方の重要な道となった。 古代における山根街道の正確な道筋については、不明であるが、現在残っている古記録によると交野市内では三つのルートがあったと言われています。その一つ枚方市史には「八幡→志水→長尾→藤阪→津田→から私部に出る街道も山根街道を称されて、往来 がひんぱんであった。」と書かれている。この山根街道は、私部の西、上ん山(うえん やま)が終点。
今回の「ふるさとウォーク」では上ん山方面から逢合橋→砂子橋を渡り、私部へ入って行くルートを歩きました。

住吉神社
由来は明らかではないが、私部の集落の南の
小高い丘の南側には東南の谷から出る北川と南
川があり、この水は、村人を喜びと悲しみに
二分した。そこで小高い丘の老松に神を求めて
礼拝していたのが住吉神社の起こりであった
といわれる。

住吉神社大鳥居
大鳥居は、万延元年(1860年)に私部口山
の鳥居谷から村中の人が修羅に原材を載せて引
っ張って運び、造ったものである。高さ7・27
メートル、幅6・67メートルもあり、交野では
最大のもので、郷土史かるたの「つくね飯
 食らって運ぶ 大鳥居」と表現されている。

予定通り12:00に交野ドームに到着、無事に「第二回ふるさとウォーク天野川コース」が終了しました。約2時間のウォークを楽しんだ参加者は次回の企画を確認して夫々、帰宅されたのでした。   <終わり>、

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