第3回ふるさとウォーク 平成22年6月9日(水)
〓ふるさと交野を歩いて知ろう文化財〓
【道しるべ】 いききランド(10時)→寺村→神宮寺→天平時代開元寺跡→牛まわし石 →山の根の道→倉治グランド→免除川沿い→いきいきランド(12時) |
5月22日号のサンケイリビングに<ふるさとウォーク>の企画紹介 が掲載され、広く交野市内・枚方から同好の皆さん53名がお集まり いただきました。今回は交野山麓の葡萄の里<神宮寺・寺>をめぐり 縄文の遺跡・天平時代の礎石を学びながらのウォークを楽しみました。
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ぞうり履きのリーダー平田さん明るく元気にご挨拶 | この方、初めてのご参加?若干、不安気なご様子 |
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私部墓地に向かう「野辺送りの小道」 | 第二京阪道路から交野三山を望む |
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小字「今井」あたりの説明 | 今井の水田とドームのコントラストが清清しい |
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交野三山の麓、神宮寺と寺をJRの電車が駆け抜ける | 神宮寺のぶどう畑 |
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※木一杯に実を着ける稲田桃、豊臣秀吉が淀君のために桃谷(大阪生野)に栽培を命じた古代種の桃、まさに鈴なり、 この鈴なりは子宝を意味し、神社のお払いの鈴はここから来ている。「神」の名前を持つのもこの木。片町線の徳安と 放出付近に<稲田>いう地域があり、桃を栽培していました。その昔、神宮寺の人々はこの苗木を仕入れ神宮寺に持って きたのではないかと推測されます。(神宮寺の長老に尋ねておきます) |
神宮寺には約九千年前の縄文早期の遺跡があって、特に貝、 木、竹で手がきの沈線文を並べた神宮寺式土器、この土器は他 に例がないことで注目されています。 (リーダー平田さんの資料から転載させて頂きました) | |
縄文時代住居跡碑付近で平田さんの説明を聞きながら |
かるた絵札 | かるた読み札 | ⇔ 昭和29年に神宮寺で天平時代(7世紀の終わりから8世紀の中ごろ)の礎石が発見され、古代の交野に大きな寺が栄えていたことが確認できました。これまで、この礎石の見つかった寺については、嘉吉元年(1441年)に作成されたとする「興福寺官務牒疎」という書物に河内交野郡の開元寺の記述があることから、天平時代に開創された開元寺とされていました。しかし、この「興福寺官務牒疎」については、最近の研究で、江戸時代に作成された偽文書である可能性が高く、その内容についても信ぴょう性が疑われています。ただし、江戸時代には、開元寺という天台宗の寺院が源氏の滝の口にあり、明治時代に廃寺となったことは様々な資料で確認できます。もしかすると、「興福寺官務牒疎」は、この江戸時代の開元寺からさかのぼって天平時代の寺院を開元寺としたのかもしれません。(星のまちより) |
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牛まわしの石、今は田圃のあぜ道にあり見つけ難い(説明板があれば良いのに!) |
| 山の根の道 二上山周辺はサヌカイトが豊富に産出し、旧石器時代(約一万年〜二万年前)から石器、石材の安定した供給地であった。 原材料のサヌカイトを媒体とした交易道が考えられる。即ち、二上山西麓−−生駒山西麓−−枚方台地のコースである。山麓の獣道が旧石器時代の踏み分け道として活用され、更に、それが本格的な道として利用されるようになったのであろう。交野方面の旧石器時代の遺跡は、藤阪宮山−−津田三つ池−−神宮寺−−星田布懸(ほしだのうかけ)−−打上−−忍ヶ丘というように、山根道に沿って続いている。 (ホームページ星のまちより)
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田植えを終えた水田に沿った「山の根の道」を歩く ↑ |
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ゴールのいきいきランド直前の第二京阪道路と交野連山をバックに記念撮影
健康と美容を実践した皆さん!元気に2時間ウォークを満喫されたようでした。 「子供にご飯作れる!」・「デイトの時間守れる!」・「ちょうど良い距離手軽でエエわ!」 ふるさとウォークの企画に皆さんご賛同されて、次回参加の希望を述べて帰宅されました。 最後までご覧頂き有難うございました。また、お会いしましょう! |