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ふるさとウォーク星降るまちめぐり

2011.4.13
道しるべ
JR星田駅⇒星の森⇒旭縄文遺跡⇒星田新池
⇒妙見河原⇒光明寺檀徒墓⇒妙見口(解散)
星田の地名の由来を探ってみると、次の二つの意味があると言われる。
 まず一つは、字のとおり星信仰である。もう一つは、「干す(ほす)」、いわゆる「干田(ほしだ)」や牧場、荒地といった意味である。
星信仰については、星田に「八丁三所(はっちょうみところ)」と言われている言葉がある。それは平安時代初期、嵯峨天皇の時代、弘法大師が私市の観音寺に立ち寄られ、ここで虚空蔵菩薩求門持(こくぞうぼさつくもんじ)の法を修められた。するとその法力によって、その夜、山手に仏眼仏母の光明が輝いた。そこで夜明けになってから山に登り、獅子窟寺山の吉祥院にある獅子の岩屋に入って仏眼尊の秘法を唱えられた。すると不思議にも大空から七曜の星が降り、それが三つに分かれて地上に落ちた。その星の降った所を探してみると、星田の高岡山の南にある星の森、光林寺の境内の森、もう一つは妙見山の頂にある三つの巨石である。以来、これらの石を「影向石(ようごうせき)」として祭ることになったと言われている。―妙見山影向石略縁起による。―
 星の森、光林寺、妙見山の距離が8丁であるところから「八丁三所」と言っている。この星の御利益(ごりやく)による信仰が星田の人々に広まり、村の名になっていったとも考えられる。

 元禄十年(1697)星田村絵地図

JR星田駅(S47年頃)

星の森モニュメント前

光明寺檀徒墓

星田新池

光明寺檀徒墓<阿弥陀如来
立像>
妙見口の仏さんから100メートルほど上流に行き、住宅の間を左に入ると星田光明寺の墓地があります。この墓地は寺の宗派から真言墓と呼ばれています。
 中に入ると正面に阿弥陀如来立像があります。像の背面には二重円光背、首には三つの膨らみを設け、三道(優しさ・素直さ・暖かさ)を表しています。
 石仏さんの前にすわり、こちらから語りかけてみれば、何か語りかけてくるようです。
天正10年(1582年)、明智光秀が織田信長に対して謀反を起こした「本能寺の変」のとき、家康は堺に滞在していました。 信長死亡の知らせを聞いた家康は、身の危険を感じ、光秀軍に見つからないよう、帰国する際、星田を通って、山城、伊賀と越えて、無事、帰還しました。 そのときに家康がひそんでいた藪が「家康ひそみの藪」といわれています。
満開の妙見坂で記念撮影  また、お会いしましょう!
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