磐船天孫降臨の神話
| 「日本書紀」や「古事記」等によると、天孫饒速日尊(にぎはやひのみこと)は天照大御神(あまてらすおお
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| みかみ)の命により、天の磐船で河内国 河上哮ヶ峰(たけるがみね)に降臨された。また、饒速日尊が降臨
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| に際して、天空より国土を望み「虚空(そら)見つ日本國(やまとのくに)といわれた ことが「やまと」と
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| のちに大和國に入り、大和河内地方を開発し建国の礎を築かれ、人々より天津神(天よりこられた貴い神様)
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| 磐船神社の創祀年代は詳らかではないが、磐窟信仰という神道最古の信仰形態と 伝承から、縄文から弥生へ
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| の過渡期までさかのぼると考えられている。饒速日尊が乗ってこられた「天の磐船」を御神体として祀り、古
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| 来より天孫降臨の聖地として崇敬されている。御神体は上部の大船のような舳先は南に向いていて、横18メ
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| 大阪築城のとき、加藤肥後守清正が持ち出そうとしたいわれのある石でもある。舟形大岩の上面に「加藤肥後
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′ | | | | | 天孫饒速日尊 (ニギハヤノミコト) | 天孫降臨の地 「哮ヶ峰」 | 磐船神社 | 御神体「天の磐船」 | 加藤肥後守清正 |
肩野物部氏と交野
物部氏一族の遠祖は「饒速日命」
| 物部氏は、皇祖神を除いて、「天孫降臨」「国見」の逸話をもつ唯一の氏族である。その遠祖は、伊弉諾命、
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| 伊弉冉命の子「天照大神」系「邇邇芸命」の兄「饒速日命」であるとされている(日本書紀)。
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| 神武天皇東征時以前に既に河内国河上哮峰(いかるがのみね)に「天磐船」に乗って天降りたとされている。
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| 更に大和の鳥見白庭山に遷ったとされている。九州遠賀川流域から、四国の北岸を通って堺に上陸し、生駒の
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| 西の日下(草香)から大和川流域に展開したともある。
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| 物部一族は神武東征のはるか以前に、北九州から瀬戸内海を経て畿内にやってきた集団であろう。更に大和の
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| 鳥見白庭山に遷ったとされている。九州遠賀川流域から、四国の北岸を通って堺に上陸し、生駒の西の日下
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| 当時は上町台地の東は淀川や大和川が流れ込む巨大な河内湖があり、その岸辺は現在の枚方あたりではなかった
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| かと思われる。彼らは淀川をさかのぼり、その支流である天野川を伝って大和に入ってきた。
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物部氏一族は大和朝廷以降、奈良時代まで大活躍
| 元来呪術を行うのが物部氏の職掌であった。物部氏と大王家とは、3世紀半ば大和朝廷発生時から祭祀を通じ
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| て密接に繋がっていた。5世紀になると、物部氏は、大伴氏と並ぶ武門として朝廷に仕えることになる。
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| 地方豪族に対する征服活動の場で物部氏は大きな役割を果たした。各地に物部と呼ばれる領有民が置かれるこ
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| とになった。26継体天皇の元で活躍した「物部麁鹿火 」(実在がはっきりしている)は、九州の「磐井の
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| 乱」を平定した。その後「大連」を次々出し尾興の子守屋の時蘇我氏と対立し、物部ー蘇我戦争に敗れ主家は、
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| 滅んだ。しかし、「壬申の乱」後に石上氏の名で物部氏の系譜を継ぐ大臣が現れ、この流れは、奈良時代末頃ま
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| で活躍する。しかし、藤原氏の進出により、物部、石上氏はこれ以降歴史から消える。
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河内地方の耕地は物部一族の領地
| 農耕文化が伝わった頃の稲作地は沼沢地を利用した自然灌漑だったので、北河内の西南部や中河内の大部分が
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| 最適の稲作地となり最初の農耕の村々ができた。しかし、ここだけでは狭くなり、更に水量の豊富な河内南北
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| にさかのぼり、北河内の茨田地方から天野川等の沿岸低地にその耕地を求めた。そして河内の多くの部分は物
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| 6世紀の終わりごろ、敏達天皇は、皇后「豊御食炊屋姫尊」(とよみけかしやひめのみこと)のために、皇后
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| 領として全国の稲作良田を求めた。その選のなかに当時美田で名高かった河内方野のあま田が入っていた。
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| その頃、大和朝廷では蘇我馬子と物部守屋の間に勢力争いがあり、馬子は敏達天皇の皇后として豊御食炊屋姫
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| 尊を推したが、守屋は先祖伝来の方野のあま田を皇后領として差し出し、忠勤を示したのである。いらい、こ
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| の田をまもる民部は皇后のための労役するものとして「きさいべ(私部)」と称する農村落が出来たのである。
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| これにより、肩野物部一族は後退し、さらに物部守屋は聖徳太子及び蘇我馬子の兵によって滅ぼされ、河内そ
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| の他の所領は奪われ交野地方での物部一族は潰えたのである。
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資料):交野町史 参考):物部氏諸説
八丁三所に降星伝説
| 天の川を中心に、星や七夕にまつわる古くからの伝説と実物が、これほど集中していまに生きている地方は他
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| に見当たらない。星田の古い言葉に「八丁三所」がある。
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| これは「妙見山影向石縁起」や「獅子窟寺記」などによると、平安初期に弘法大師が虚空蔵菩薩求聞持(こく
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| ぞうぼさつ・じもんじ)の法を修められ、獅子窟寺の宝窟にこもり仏眼尊の秘法を唱えると、七曜の星(北斗
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| その一つが星田妙見宮の山頂拝殿奥に見える御神体の大岩であり、星田集落の中にある降星山光林寺の本殿左
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| 奥の大岩、さらに星田傍示川傍の高岡山星の森宮にある岩である。いらいこれらの石を影向石として祀ること
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| になったという。この3ヶ所を結んだ一辺が約八丁(900m)あり、ここから八丁三所と呼ばれている。
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交野遊猟と桜狩り
| 「交野ヶ原」は、枚方市、交野市に渡るなだらかな丘陵で、天野川より北、生駒山系(の北端)の西、石清水
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| 八幡宮の小さな山より南に広がる枚方丘陵一帯を指して呼ばれたらしい。桓武天皇が延暦2年(783)に行幸し
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| て鷹狩りをされて以来、平安貴族たちに遊猟地として愛され、また特に春には桜狩りが楽しまれた
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| 今でも天皇以外は入ってはならないということから禁野(「天皇以外はこの地に入る事を禁ず」の場所)の地
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| 名が残っている。遊猟は単に狩を行うだけではなく、礼儀の場であり、遊宴の場でもあった。淀川の中流地帯
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またや見ん かた野の御野の 桜狩り 花の雪散る 春のあけぼの 藤原俊成 (新古今和歌集)
| この歌は、交野の名が出てくる歌の中で、最も有名なものである。
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| 桓武天皇が広く山野を駆けて鳥獣を楽しんだとされ、交野への行幸は十数回に及んでいる。天皇の遊猟があ
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| る度に、その下の皇族や宮廷人達も続々と交野が原に来ることになった。その結果として「交野」が文学に
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| 数多く残ることとなったのである。また、各地の地名も今に残るものが少なくない。藤原俊成の歌でもある
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七 夕 伝 説
| 桓武天皇が長岡京に遷都され、交野の柏原の野(現在の枚方市片鉾の西南)において、北極星を祀って、都の
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| 移転という大事業ができたことを祈られた。これを機にことあるごとに天(北極星)を祀られた。
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| それから、桓武天皇はたびたび交野が原に行幸され、狩猟を楽しまれた。それによりその下の皇族や宮廷人たち
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| も続々交野が原に来ることになったのである。この頃は都で催される歌合せ(和歌)で競っていたので、あらゆ
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| るところに題材を求めた。当時は天体を敬い、それを美化する風潮があったので、交野が原においても水枯れた
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| 砂礫ばかりの川床を夜空の星の連なる天の川になぞらえ甘野川を天野川と改名した。
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| また、用水不足で稲作ができなかった乾し田を星田と変え、交野忌寸一族が祀った機織の社(天棚機比売大神
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| (あめのたなばたひめのおおかみ)、栲機千々比売大神(たくはちちぢひめのおおかみ)を主神として機物の祖
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| 先を祀った)を天界に神を求め、天の川に輝く織女星すなわち棚機女(たなばたつめ)として和歌を創ったので
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| ある。また、稲作地に最も適したあま田の神を大空の天田を耕す神、牽牛星(ひこぼし)をあて、天田の宮と称
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| 中国のたなばた伝説からこの天野川にかかる橋を「かささぎ橋」と名づけ、天の川、織女星、牽牛星などと一緒
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| に「たなばた伝説」の環境が整ったのである。日本全国、七夕祭りが盛んな地域は数多くありますが、平安の昔
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| から私たちの故郷・交野ヶ原のように地域全体が七夕と星・天体に関連した地名や伝承に彩られているゾーンは
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| 我が国における七夕伝説・星祭りの発祥の地と言えるでしょう。
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